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2009年01月23日
2007年07月04日
リレーインタビュー vol7
第七回 永井宏(ながいひろし)
1951年 東京生まれ。美術作家。
「BRUTUS」編集者を経て、1992年―1996年まで、葉山で生活に根ざしたアートを提唱するギャラリーを開設。現在は葉山を拠点に作品を制作し、出版社、Windchime booksを創設し、詩集などの本を制作、販売などしながら、各地でワークショップを開催しさまざまなジャンルの作家たちの表現をサポートしている
葉山を拠点に活動をされているそうですが、ご出身もそちらなのでしょうか。
−出身は世田谷なんです。出版社で編集者をしていた事があって、深夜まで働いて、それから飲みに行ってと、だんだんそういう生活に疲れてきたとき、友達に誘われて三戸浜(三浦)に行ったんですよ。そこからウインドサーフィンを始める事になってね。
海が好きになったきっかけですか?
−会社だと組織の中で誰の責任なのか見えてこなかったりするでしょ? 一人で仕事をしていると全て自分の責任。それが海で、ヨットやウインドサーフィンをしているのとおなじ感じなんですよね。海では自分の力を超える場所にはどうしたっていけないし、最初はムキになってやっていても、痛い目にあって気づかされて……。自然って待ったなしだから自分のレベルがわかっちゃうっていうかね。自分の(レベルが)わかってくるとムキにならなくなってきますよね。
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1951年 東京生まれ。美術作家。
「BRUTUS」編集者を経て、1992年―1996年まで、葉山で生活に根ざしたアートを提唱するギャラリーを開設。現在は葉山を拠点に作品を制作し、出版社、Windchime booksを創設し、詩集などの本を制作、販売などしながら、各地でワークショップを開催しさまざまなジャンルの作家たちの表現をサポートしている
葉山を拠点に活動をされているそうですが、ご出身もそちらなのでしょうか。
−出身は世田谷なんです。出版社で編集者をしていた事があって、深夜まで働いて、それから飲みに行ってと、だんだんそういう生活に疲れてきたとき、友達に誘われて三戸浜(三浦)に行ったんですよ。そこからウインドサーフィンを始める事になってね。
海が好きになったきっかけですか?
−会社だと組織の中で誰の責任なのか見えてこなかったりするでしょ? 一人で仕事をしていると全て自分の責任。それが海で、ヨットやウインドサーフィンをしているのとおなじ感じなんですよね。海では自分の力を超える場所にはどうしたっていけないし、最初はムキになってやっていても、痛い目にあって気づかされて……。自然って待ったなしだから自分のレベルがわかっちゃうっていうかね。自分の(レベルが)わかってくるとムキにならなくなってきますよね。
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2007年06月04日
リレーインタビュー vol 6
第六回 竹之内浩一(たけのうちひろかず)
1954年 鹿児島生まれ。株式会社ケンウッド ブランド戦略統括部 宣伝室 スクエア丸の内マネージャー
1980年潟gリオ入社 レコード事業部。1984年潟gリオ 宣伝部に異動。2002年−現職。趣味 ウクレレ 音楽。

ケンウッドの丸の内ショールームに異動になられて5年。直接エンドユーザーの方々と接することが出来る環境はいかがでしょうか。
メーカーが自分達の商品を直接ユーザーに伝えていくということをここ10年くらいやっていなかった。販売店に置いておけば売れる。僕も宣伝部の人間だったので、宣伝すればいいと思っていたんだけれど、いざショールームにたってみると、お客様が求めていることとメーカーが発信してきたことのすれ違いをすごく感じたんだよね。
エンドユーザーの方の声を聞いてみたら、メーカー側の考えていたことと違ったということですね。
全て違うわけではないけれど “ちょっと何か違うんじゃないかな。。。。”って。それに、自分達(メーカー側が)伝えたいこともきちんと伝わっていないんじゃないかなって事も分かってきて・・。だからショールームで直接お客様との接点を持つのは凄く大事だと思って、“じゃぁ、お客様の目的って何かな?”と考えた時にお客様によってそれぞれ目的が異なる。達成できないかもしれないけれど、このお客様にはこう、この方にはこう・・・とお客様のニーズを見つけていこうと・・・・。そうやって色々な状況に応じて自由に発想できるようにしていくとお客様に喜んで頂ける商品も生れてくるんじゃないかな・・・メーカーが受身になってお客様にとって必要なものの確認、喜んでいただけているかの確認が大切なんじゃないかと思ってね・・・喜んでもらって、それを買って頂くのが一番だと思うのだけれど、ではその喜びをどうやって作っていけるのか・・・・。
ハードではなく、ソフトの提供ですね。
僕は凄く音楽が好きなんだけれど、好きな音楽ってずっと好きなんだよね。ハードは取り替えられるけれど・・・。だからショールームでもお客様にオーディオの説明をするのではなく、CDを聴いてもらうことが最初。好きな音楽、心に残る曲を聴くと良い音で聴けるオーディオが欲しくなる。オーディオを売るのが目的ではなく、その人が好きな音楽、好きになりそうな曲との出会いを作ってあげる・・・。そんな場がショールームだね。“このオーディオで視聴できる”=ショールームではなくって・・。
音楽を聴くことの楽しさ、快適さを提供していく。丸の内という立地条件も幸いして、とても良いお客様がきてくださるし、音楽を通してのお客様とのコミュニケーションがとても楽しい。だからショールームでの仕事がとっても面白い。(オーディオの)マニュアックな方ももちろんお見えになるけれど、音楽が好きな人にもっと来てもらいたいから、音楽イベント(*)を行っているんだよね。
*月に数回ミュージシャンを招いてのコンサートを無料で行っている。
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1954年 鹿児島生まれ。株式会社ケンウッド ブランド戦略統括部 宣伝室 スクエア丸の内マネージャー
1980年潟gリオ入社 レコード事業部。1984年潟gリオ 宣伝部に異動。2002年−現職。趣味 ウクレレ 音楽。
ケンウッドの丸の内ショールームに異動になられて5年。直接エンドユーザーの方々と接することが出来る環境はいかがでしょうか。
メーカーが自分達の商品を直接ユーザーに伝えていくということをここ10年くらいやっていなかった。販売店に置いておけば売れる。僕も宣伝部の人間だったので、宣伝すればいいと思っていたんだけれど、いざショールームにたってみると、お客様が求めていることとメーカーが発信してきたことのすれ違いをすごく感じたんだよね。
エンドユーザーの方の声を聞いてみたら、メーカー側の考えていたことと違ったということですね。
全て違うわけではないけれど “ちょっと何か違うんじゃないかな。。。。”って。それに、自分達(メーカー側が)伝えたいこともきちんと伝わっていないんじゃないかなって事も分かってきて・・。だからショールームで直接お客様との接点を持つのは凄く大事だと思って、“じゃぁ、お客様の目的って何かな?”と考えた時にお客様によってそれぞれ目的が異なる。達成できないかもしれないけれど、このお客様にはこう、この方にはこう・・・とお客様のニーズを見つけていこうと・・・・。そうやって色々な状況に応じて自由に発想できるようにしていくとお客様に喜んで頂ける商品も生れてくるんじゃないかな・・・メーカーが受身になってお客様にとって必要なものの確認、喜んでいただけているかの確認が大切なんじゃないかと思ってね・・・喜んでもらって、それを買って頂くのが一番だと思うのだけれど、ではその喜びをどうやって作っていけるのか・・・・。
ハードではなく、ソフトの提供ですね。
僕は凄く音楽が好きなんだけれど、好きな音楽ってずっと好きなんだよね。ハードは取り替えられるけれど・・・。だからショールームでもお客様にオーディオの説明をするのではなく、CDを聴いてもらうことが最初。好きな音楽、心に残る曲を聴くと良い音で聴けるオーディオが欲しくなる。オーディオを売るのが目的ではなく、その人が好きな音楽、好きになりそうな曲との出会いを作ってあげる・・・。そんな場がショールームだね。“このオーディオで視聴できる”=ショールームではなくって・・。
音楽を聴くことの楽しさ、快適さを提供していく。丸の内という立地条件も幸いして、とても良いお客様がきてくださるし、音楽を通してのお客様とのコミュニケーションがとても楽しい。だからショールームでの仕事がとっても面白い。(オーディオの)マニュアックな方ももちろんお見えになるけれど、音楽が好きな人にもっと来てもらいたいから、音楽イベント(*)を行っているんだよね。
*月に数回ミュージシャンを招いてのコンサートを無料で行っている。
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2007年04月12日
リレーインタビュー Vol 5
第五回 毛利甚八(もうりじんぱち)
1958年長崎県佐世保市生まれ。ノンフィクション作家。趣味は釣りと音楽、作詞作曲した歌をバンドで歌う。ボブディランとボブ・マーリィ、ジョンレノンを尊敬する。
家庭裁判所を舞台にした人気漫画「家栽の人」の原作者。

今のお仕事につかれたきっかけなどはありますか?
高校生の時にはもう物書きになろうと思っていましたね。中学3年生の時に同級生が交通事故で亡くなり、その翌年祖父も亡くなったことで「人はどうして死ぬんだろうか」「人はどうして存在するんだろうか」とかんがえるようになり、文学少年になったのはその頃からです。佐世保の進学校に進んだのですが、勉強は全くせず本ばかり読んでいました。最初は歌を作ろうと詩の世界から文学に入ったんです。学校ではかぐや姫のコピーバンドで結構人気があったので(笑)、歌手になろうか物書きになろうか迷ったんですけれど、自分が考えている事や伝えたい事は歌の世界では表現しきれないな・・・・と当時は思ったのと、いろいろな小説を読んで自分の心が救われたと強く感じていたので、自分もものを書いて人の心を救える人になれるといいなーと思ったのがきっかけですね。
ただ、「夢」というきらびやかなものじゃなくて、自分がすっごく悩んでいてそこから抜け出す道としてものをかくという事にしがみついて生きてきたっていうほうが強いかな。
大学生の頃にも小説を書いていたんですが、今後書き続けていくのなら色々な経験をすること、他の世界を見ること、取材力が必要なんだと気付いて、大学4年の終わりから雑誌記者の道に入っていったんです。3-4年はすごく貧乏だったけれど、会社のお金でいろんなところにいけて10年ぐらいは楽しんで仕事してましたね。旅をして違う世界をみつめると、自分の内面に今までと違うものが産まれるんだと味をしめた。それが自分にとってとても良い事だったので、それがきっかけでフリーのライターになったんですね。釣りが好きになったのもその間です。
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1958年長崎県佐世保市生まれ。ノンフィクション作家。趣味は釣りと音楽、作詞作曲した歌をバンドで歌う。ボブディランとボブ・マーリィ、ジョンレノンを尊敬する。
家庭裁判所を舞台にした人気漫画「家栽の人」の原作者。
今のお仕事につかれたきっかけなどはありますか?
高校生の時にはもう物書きになろうと思っていましたね。中学3年生の時に同級生が交通事故で亡くなり、その翌年祖父も亡くなったことで「人はどうして死ぬんだろうか」「人はどうして存在するんだろうか」とかんがえるようになり、文学少年になったのはその頃からです。佐世保の進学校に進んだのですが、勉強は全くせず本ばかり読んでいました。最初は歌を作ろうと詩の世界から文学に入ったんです。学校ではかぐや姫のコピーバンドで結構人気があったので(笑)、歌手になろうか物書きになろうか迷ったんですけれど、自分が考えている事や伝えたい事は歌の世界では表現しきれないな・・・・と当時は思ったのと、いろいろな小説を読んで自分の心が救われたと強く感じていたので、自分もものを書いて人の心を救える人になれるといいなーと思ったのがきっかけですね。
ただ、「夢」というきらびやかなものじゃなくて、自分がすっごく悩んでいてそこから抜け出す道としてものをかくという事にしがみついて生きてきたっていうほうが強いかな。
大学生の頃にも小説を書いていたんですが、今後書き続けていくのなら色々な経験をすること、他の世界を見ること、取材力が必要なんだと気付いて、大学4年の終わりから雑誌記者の道に入っていったんです。3-4年はすごく貧乏だったけれど、会社のお金でいろんなところにいけて10年ぐらいは楽しんで仕事してましたね。旅をして違う世界をみつめると、自分の内面に今までと違うものが産まれるんだと味をしめた。それが自分にとってとても良い事だったので、それがきっかけでフリーのライターになったんですね。釣りが好きになったのもその間です。
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2007年03月07日
リレーインタビュー Vol 4
第四回 夢枕獏(ゆめまくらばく)
1951年神奈川県小田原市生まれ。小説家。
釣りや旅行が趣味。”下手を楽しむ”をコンセプトに陶芸もされ、陶芸の本も出版されている。
子供の頃から作家になりたいという夢をお持ちだったのでしょうか。
「そうですね・・・・。11,2歳の時にはもう書いていましたね。」
小学生の頃に“作家”という職業があるという事をご存知だったのですね。
「他にもやりたいことがあったな・・・。ターザンも職業だと思ってたので(笑)ターザンになりたいな・・・・。と思っていたときもありましたけれど、現実的だったのが作家だったんですね。」
子供の頃の夢が叶ったということですね。
「幸運にもそうですね。6歳ぐらいのときに字を覚えるよりも先に話を作って語っていましてね。好奇心が旺盛だったというか・・・・オヤジが寝る時に話してくれていた物語の続きが聞きたくて『次は?それでどうなるの?』と聞き続けて・・・。ついに父親が詰まってしまって、それで自分で話の続きを作っちゃってね。今度は自分がオヤジに聞かせていたんです。そこがはじまりかな。」
ペンネームはいつ頃に?
「高校生の時から、夢枕獏でしたね。SFやファンタジーを書こうと決めていたので、読んで字の如く。“獏”って夢を食べる動物だといわれていますが、性格には“悪夢"なんですよ」
高校生の頃にペンネームをお持ちになったのですね。そうすると大学は?
「作家になろうと思っていたのに、大学では日本文学部に入学してしまったんです。失敗でしたねー」
失敗ですか?
「日本文学部なんて、ドンピシャでしょ?真ん中過ぎるのは経験値が減っちゃうんで、損なんですよ。作家になるんなら、当時の僕の大学でいうなら、海洋工学部とか考古学部とか・・・。ぜんぜん関係が無いほうがいいですね。」
順調な人生のように思いますが、転機のような出来事は?
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1951年神奈川県小田原市生まれ。小説家。
釣りや旅行が趣味。”下手を楽しむ”をコンセプトに陶芸もされ、陶芸の本も出版されている。
子供の頃から作家になりたいという夢をお持ちだったのでしょうか。
「そうですね・・・・。11,2歳の時にはもう書いていましたね。」
小学生の頃に“作家”という職業があるという事をご存知だったのですね。
「他にもやりたいことがあったな・・・。ターザンも職業だと思ってたので(笑)ターザンになりたいな・・・・。と思っていたときもありましたけれど、現実的だったのが作家だったんですね。」
子供の頃の夢が叶ったということですね。
「幸運にもそうですね。6歳ぐらいのときに字を覚えるよりも先に話を作って語っていましてね。好奇心が旺盛だったというか・・・・オヤジが寝る時に話してくれていた物語の続きが聞きたくて『次は?それでどうなるの?』と聞き続けて・・・。ついに父親が詰まってしまって、それで自分で話の続きを作っちゃってね。今度は自分がオヤジに聞かせていたんです。そこがはじまりかな。」
ペンネームはいつ頃に?
「高校生の時から、夢枕獏でしたね。SFやファンタジーを書こうと決めていたので、読んで字の如く。“獏”って夢を食べる動物だといわれていますが、性格には“悪夢"なんですよ」
高校生の頃にペンネームをお持ちになったのですね。そうすると大学は?
「作家になろうと思っていたのに、大学では日本文学部に入学してしまったんです。失敗でしたねー」
失敗ですか?
「日本文学部なんて、ドンピシャでしょ?真ん中過ぎるのは経験値が減っちゃうんで、損なんですよ。作家になるんなら、当時の僕の大学でいうなら、海洋工学部とか考古学部とか・・・。ぜんぜん関係が無いほうがいいですね。」
順調な人生のように思いますが、転機のような出来事は?
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2007年02月01日
リレーインタビュー vol 3
第三回 黒笹 慈幾
1950年東京生まれ。小学館 コミュニケーション編集局
小学生の子を持つ母親のための家庭教育誌「edu(エデュ−)」編集長。
1974年小学館入社。1981年BE-PAL創刊に参画。1998年より2003年までBE-PAL編集長。趣味は、渓流のイワナ釣り。

早速ですが、人生の分岐点のようなことがあればお話いただけますか。
「僕もそうですが、会社という組織の中で・・例えば自分があとどれくらい会社にいてどんな仕事ができるのか、大体みえてくる時期というのがありますよね。ただ僕の場合、ちょっと早熟でね、40歳の誕生日の時に人生の折り返し地点だと感じて・・マラソンでいうなら『残りあと何kmか』と(人生の)カウントダウンをしたんですね。」
具体的にはどんなことを
「要するに、あとどれくらい残っているかな?と。仮に70歳まで元気だとして『あと何回遊べるのかな?釣りにいける回数は?』と考えたんですね。休日の数を数えてみたら、意外と少ないということに驚き、単純ですが『時間を大切にしよう』そう思ったんです」
普通は40歳で「あとどれくらい?」と、turn over発想はしないですよね・・・。
「当時、ビーパルの副編(集長)をしながら新しい雑誌(ラピタ)創刊の準備をしていて、猛烈に忙しかった。自分では気がつかなかったけれど、随分無茶してたんでしょう・・・。41歳で大病をしましてね。60日〜70日ぐらい、修理工場に入ったんですよ。やることが無いもんだから、毎日本を読んだ。消化器系の病気だったこともあり、今度は『あと何回美味しいものが食べられるんだろう』と考えたんです。そうすると1食1食を無駄にしたくなくなる。遊び(の日数)に食(の回数)が加わってね・・・。遊びに食・・・次に“健康”にフォーカスを当てるようになってきましたね。
修理工場って表現をしたのは、病気をして車の車検のように、体の中の悪いパーツを全部取りかえてもらった感じでね・・。その大病以降ずーっと病気しなかったんですよ。10年くらい風邪もひかなかったですからね・・・」
運動など何かされているのですか?
「まず、夏は渓流のイワナ釣りと鮎の友釣り。冬は毎朝4kmくらい歩いています。今年からはそれにスポーツクラブが加わって、週に1.5回〜2回水泳もやっています。平泳ぎ専門なんですが、平均すると800mぐらい泳いでいるかな」
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1950年東京生まれ。小学館 コミュニケーション編集局
小学生の子を持つ母親のための家庭教育誌「edu(エデュ−)」編集長。
1974年小学館入社。1981年BE-PAL創刊に参画。1998年より2003年までBE-PAL編集長。趣味は、渓流のイワナ釣り。
早速ですが、人生の分岐点のようなことがあればお話いただけますか。
「僕もそうですが、会社という組織の中で・・例えば自分があとどれくらい会社にいてどんな仕事ができるのか、大体みえてくる時期というのがありますよね。ただ僕の場合、ちょっと早熟でね、40歳の誕生日の時に人生の折り返し地点だと感じて・・マラソンでいうなら『残りあと何kmか』と(人生の)カウントダウンをしたんですね。」
具体的にはどんなことを
「要するに、あとどれくらい残っているかな?と。仮に70歳まで元気だとして『あと何回遊べるのかな?釣りにいける回数は?』と考えたんですね。休日の数を数えてみたら、意外と少ないということに驚き、単純ですが『時間を大切にしよう』そう思ったんです」
普通は40歳で「あとどれくらい?」と、turn over発想はしないですよね・・・。
「当時、ビーパルの副編(集長)をしながら新しい雑誌(ラピタ)創刊の準備をしていて、猛烈に忙しかった。自分では気がつかなかったけれど、随分無茶してたんでしょう・・・。41歳で大病をしましてね。60日〜70日ぐらい、修理工場に入ったんですよ。やることが無いもんだから、毎日本を読んだ。消化器系の病気だったこともあり、今度は『あと何回美味しいものが食べられるんだろう』と考えたんです。そうすると1食1食を無駄にしたくなくなる。遊び(の日数)に食(の回数)が加わってね・・・。遊びに食・・・次に“健康”にフォーカスを当てるようになってきましたね。
修理工場って表現をしたのは、病気をして車の車検のように、体の中の悪いパーツを全部取りかえてもらった感じでね・・。その大病以降ずーっと病気しなかったんですよ。10年くらい風邪もひかなかったですからね・・・」
運動など何かされているのですか?
「まず、夏は渓流のイワナ釣りと鮎の友釣り。冬は毎朝4kmくらい歩いています。今年からはそれにスポーツクラブが加わって、週に1.5回〜2回水泳もやっています。平泳ぎ専門なんですが、平均すると800mぐらい泳いでいるかな」
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2006年12月22日
リレーインタビュー vol 2
第二回 水谷利之(みずたに・としゆき)
1947年東京生まれ。ミズタニ自転車株式会社 代表取締役社長。
2004年に4代目社長に就任。1996年にr&m社(ドイツ)のBD-1を輸入開始。日本における高級フォールディングバイクの市場を切り開いた。
趣味は、居合と能。日本の文化を日々探求している。

着物姿で颯爽と登場してくださった、水谷社長。
どんな場面でも手を抜かないカッコよさが、現れていました。
男性から見ても女性から見ても“かっこいい”と言われる水谷社長ですが・
ハハハ・・・それはお世辞でしょう・・・でも、嬉しいよね。。。
まずは子供の頃の話を聞かせてください
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1947年東京生まれ。ミズタニ自転車株式会社 代表取締役社長。
2004年に4代目社長に就任。1996年にr&m社(ドイツ)のBD-1を輸入開始。日本における高級フォールディングバイクの市場を切り開いた。
趣味は、居合と能。日本の文化を日々探求している。
着物姿で颯爽と登場してくださった、水谷社長。
どんな場面でも手を抜かないカッコよさが、現れていました。
男性から見ても女性から見ても“かっこいい”と言われる水谷社長ですが・
ハハハ・・・それはお世辞でしょう・・・でも、嬉しいよね。。。
まずは子供の頃の話を聞かせてください
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2006年11月17日
リレーインタビュー vol1
今月からはじめましたリレーインタビュー。
「夢は見るものではなく叶えるもの」をテーマに子供の頃の
夢や、今までの人生での出会い、転機などのお話を「OVEな人」
に伺っていきます。
第一回目は、ドイツ riese und muller社 Marcus Riese氏

「1968年ドイツ生まれ。 OVEで扱っているBD-3のドイツ本社 riese und muller社の共同創業者の一人であり、 デザインとメカニックを担当。」
チャンスは必ずやってくる その1
どんな子供時代でしたか?
「父親が車の修理をしているのを見るのが好きで、車にとても興味があったんだ。 けれども、車には運転免許が必要だし、子供には運転できないし、修理なんて到底できっこない。でも自転車は、違うよね。自分の思うとおり、好きなようにいくらでも触ってよかった。僕にとって自転車は、まさに“ Freedom ”だったな。」
初めて自転車を買ってもらったのは?
「4歳のとき。すぐに僕のfriendになったんだ。」
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「夢は見るものではなく叶えるもの」をテーマに子供の頃の
夢や、今までの人生での出会い、転機などのお話を「OVEな人」
に伺っていきます。
第一回目は、ドイツ riese und muller社 Marcus Riese氏
「1968年ドイツ生まれ。 OVEで扱っているBD-3のドイツ本社 riese und muller社の共同創業者の一人であり、 デザインとメカニックを担当。」
チャンスは必ずやってくる その1
どんな子供時代でしたか?
「父親が車の修理をしているのを見るのが好きで、車にとても興味があったんだ。 けれども、車には運転免許が必要だし、子供には運転できないし、修理なんて到底できっこない。でも自転車は、違うよね。自分の思うとおり、好きなようにいくらでも触ってよかった。僕にとって自転車は、まさに“ Freedom ”だったな。」
初めて自転車を買ってもらったのは?
「4歳のとき。すぐに僕のfriendになったんだ。」
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